教養もあり剣術も強く、カリスマのあった武市半平太。場合によっては西郷並みの人物になっていたかも。
しかし、彼が生まれたのは土佐藩。その藩の成り立ちから、武士が上士と下士に分かれていがみあっており、藩主は「気持ちは勤皇、行動は親幕府」という複雑さ。
彼のカリスマ性を世間が放っておくはずはなく、彼自身の信じる思想もあり、勤皇党を組織。しかし集まってくる大半の藩士は下士。どんなに党の結束を高めても、影響力は強まらない。
ここで藩に見切りをつけて、龍馬がそうしたように脱藩してしまえばよかったのに、土佐藩の改革にこだわった。そして正攻法に限界を感じると、裏工作や、暗殺といった裏工作により権力を得ていく。
しかし、国許の重役、そして藩主を手なずけても、江戸の老公は快く思っていなかった。容堂が何よりも気に食わなかったのは、下級武士たちが調子に乗っていたところでしょう。
はねっかえりの強い若者を許せないほど小さな人間ではなかった容堂、しかしそれは上士に限ったこと。
国許に帰り、世間での攘夷派の勢いが弱まると、一気に勤皇党を潰しにかかる。吉田東洋殺しを探していた上士達は、下手人が勤皇党の中にいて、指図したのは武市であろうと分かっていた。
捕らえられた半平太は、そのとき上士格であったあったため拷問にはあわず、牢獄生活を送る事となる。
最終的にどのような経緯で武市が首謀者であった事が露見したかは分かりませんが(一説には以蔵が吐露したという説が。それには理由があるのですが、それはまた)、その責を負って切腹する。
その最後は、切腹の中でも特に苦しいとされる三文字で、それを達成するために介錯を自ら制したという。享年37歳。
龍馬も一目を置き、龍馬を「土佐にはあだたぬもの」と認めていた武市半平太。なぜ彼が龍馬のように藩を捨てられなかったか。
武市は下士の中でも最も上士に近い「白札」という身分であり、土佐藩への思い入れはただの下士よりかは強かったのかもしれません。上士からしたら、ただの下士だったのでしょうが。
維新後、武市を殺した事に後藤象二郎、板垣退助、また容堂までもが後悔の言葉を残してます。
彼が生きていたとして、西洋の文化を積極的に取り入れる新政府を見てどう思ったでしょうか。どちらにせよ、そのカリスマ性が災いして、西郷がごとく、士族反乱の大将に担ぎ上げられてしまったかもしれませんね。
妻富子は終生一人身を通したそうです。
*僕の歴史観は小説や漫画に負うところが多く、事実と異なったり、偏った意見があった場合にはお許しください。



